
芹田商工振興会は長野駅東側の北市・栗田・千田・川合新田・母袋・日詰区内の事業所等を会員として地域活動に積極的に取り組み「住んで良かった、住みたい街芹田」の実現に努力しています。 いくつか取り組んでいる事業のひとつが「長野飛行場の歴史保存」です。他の団体とも協調・協力して進めています。信州大学工学部建築学科寺内研究室の協力を頂いたこと、芹田住民自治協議会の支援も頂きました。活動の成果としての案内看板とその工事費用やプロペラの展示費用は長野市の「長野まちづくり支援事業」からの補助金を活用しました。
①なぜここに飛行場
人の移動と郵便物の迅速化のために内務省(当時)の政策で全国に多くの飛行場が計画されました。
長野市内から飯綱高原までの広い範囲にいくつかの候補地がありましたが、反対する地域がある中で地権者の協力が得られたことでここに決まりました。他にもいい条件がそろっていました。
- 好都合な気流があること
- 平坦で必要な広さがあること
- 大きな川の分岐点に近く、上空から確認しやすいこと
- 滑走路を造るための石や砂が近くの犀川から得られること
②飛行場の歴史
| 昭和12年 | 工事開始 小学生から老人まで市民のボランティアで作業 シナ事変勃発で工事を急ぎました |
|---|---|
| 昭和13年 | 市営飛行場として完成 名称は 「愛国長野飛行場」 滑走路全長630m 幅30m 東京・新潟・大阪間の定期航空路線に加えて長野郵便局ではさらに金沢・富山のほか 満洲・台湾・関東州・樺太へ普通航空便を開始しました 開港の10日後には逓信省(当時)に飛行場は献納されました |
| 昭和16年 | 第二次世界大戦開戦 陸軍に接収されて軍用飛行場となりました |
| 昭和19年 | 大本営を松代に造営するために大型機の発着を見込んで、滑走路の拡張工事開始 計画は滑走路全長2000m 幅150m 滑走路広域図 |
| 昭和20年 | 8月13日長野空襲 8月14日ポツダム宣言受託 8月15日終戦 終戦で滑走路拡張工事は中止になり、GHQ(占領軍司令部)の指示により滑走路は残して、飛行場は食糧増産のための開拓農地になりました |
③飛行場の歴史を物語るエビデンス
○滑走路とタウンパット
長野市立犀陵中学校の西側を南北に通る道路が滑走路の一部です。滑走路は30m幅でした。



南側の川合新田グランドと川合新田保育園のあるところが南側のタウンパットです。




その門標は取り外されて記念緑地に安置されています。



昭和20年8月飛行場が空襲にあった数日後、中学生・高校生ぐらいの男子たちが、飛行場のあたりからプロペラを担いで日詰の自宅に持ち帰りました プロペラは久しく土蔵の軒下に吊るしてありました 平成12年ごろその土蔵の改修に当たり犀陵中学校へ移すため教師と生徒数人で学校へ持ち帰りました。

このプロペラは他の機体にも使われたため、通常より多くの取付穴が開いています、また空襲の際に 機銃掃射を受けた貫通穴が開いていて戦争を生々しく物語っています。
平成28年犀陵中学校のコミュニティースクールで飛行場の歴史学習が始まった折、校内でプロペラを探索して見つけ出し、以降このプロペラは歴史学習の中心的な存在になっています。

④ウォーキングコース
飛行場を中心にした地域のことを学習しながら健康づくりにウォーキングを楽しめるようウォーキングコースを作りました。コースは信州大学工学部建築学科寺内研究室の監修によります。
コースは飛行場の多様な遺跡を巡りながら、今では見ることができない「掩体壕(えんたいごう)」の場所や、地域の歴史的な建物も紹介しています。コースは歩く方の体力に応じて3コースから選べます。
*掩体壕:飛行機を上空からの空襲から守るための施設、土手を築き竹などを指して覆いをした。





















